子之神社の見どころ紹介







拝殿格天井板絵「花鳥獣魚図(かちょうじゅうぎょのず)」


この板絵は、全部で、八十四枚あり、江戸幕府の御用絵師であった、狩野派(かのうは)の影響下のもと、陰陽五行説や本草学の知識を盛り込んで描かれたもので、当神社が、当時の大江戸の未申(ひつじさる)・裏鬼門の鎮護であることを意識したのか、西南の角には、鬼門封じ、邪気除けの守護霊獣である、「白澤(はくたく)」が描かれています。

作者である、八十嶋文雅(やそしまぶんが)は、江戸時代後期の女流絵師であり、谷文晁(たにぶんちょう)、そして池大雅(いけのたいが)に、師事したと言われ、文晁門下であることは、「新燕石十種」に明らかです。

そして、この板絵を描く時、宮司家に伝わる記録、伝承によれば、同門の兄弟子である、大西椿年(おおにしちんねん)が助筆したと云われ、そのことを証するように、「梅に鶯」「比翼の白鷺」の二枚のに絵には、男女のものと思われる、二つの手形が押されているのを認めることができ、文雅、椿年、二人の愛の軌跡をしのぶよすがともなり、今から百七十年前のロマンスに想いを馳せることができます。




(北東) (↑神殿側↑) (北西)

文雅落款
梅に鶯
比翼の白鷺 白澤の図

(南東) (↓出入口側↓) (南西)

※画像をクリックしますと、大きな図をご覧になれます。撮影状況により、画像の一部に乱れや見づらい部分もございますがご了承下さい。







子授け子育ての狛犬


この左右一対の狛犬は、古くより「子授け子育ての狛犬」と呼ばれ、江戸の末、文久3年(1863)に、甲斐源氏の流れをくむ当地の豪農、露木浦右衛門、露木富三郎両名により一族の子孫繁栄を祈念して奉納されたもので、石工、安五郎、福次郎の作になります。

左右一対の「子連れ狛犬」は、全国的にも大変珍しく、「唯一」のものと云われ、向って左側の母犬の抱く子犬を撫でれば「子授け・安産」の御利益が、向って右側の父犬の背負う子犬を撫でれば「無事成長」の御利益が授けられると云います。

また病(やまい)にわずらう人が、狛犬の体のその部位をさすると「平癒回復」の御利益が授けられるとも云われています。


(子犬を抱く母犬) (子犬を背負う父犬)






金精霊石(こんしょうれいせき)

宮司家に古くから、秘祭されてきたもので、水神である蛇神(みずちがみ)として、歴代の宮司により、ひそやかに、お祀りされてきました。縄文時代に起源を持つ祭祀遺物のようで、男性の象徴を表したもののようであり、子授け安産、また意中の男性の心を射止める恋愛成就の霊験もあらたかな霊石です。尚、異性、同性、いずれの場合とも、その想いは叶えられる、と伝えられています。







美女石(びじょいし)

古くから、当神社境内に鎮まり、万葉集にある、東歌(草陰の 荒ゐの崎の 笠島を 見つつか君が 山路こゆらむ)の古歌に由来を持つ石といわれ、防人として旅立った恋人を、待っていた女性が、この歌を詠み、恋人を待ちわびるうちに、石となってしまった、と言う石です。古代の天体信仰と関係があるようで、表面には、オリオン座と思われるものを中心として、無数の星を表した盃状穴がきざまれています。また石全体が、女性の象徴を表しているようであり、子授け安産、また意中の女性の心を射止める恋愛成就の霊験もあらたかな霊石です。尚、異性、同性、いずれの場合とも、その想いは叶えられる、と伝えられています。







源頼朝公主従 土肥の椙山潜居の図 (天保11年(1840))

源義経公 弁慶主従・安宅の関の図 (天保11年(1840))






静御前 しずの舞(本殿・脇障子の彫刻/江戸後期) 

当子之神社は、八幡太郎源義家公、その子孫である源頼朝公、源義経公と、源氏一門から深い崇敬を受け、また当神社第二十七代宮司、刑部左衛門穂積重時は、源義経公に御幼少時から仕え、また当宮司家は、鎌倉時代の姻戚を通じて、清和源氏嫡流の血脈を受け、第五十三代現宮司、穂積天佑は、頼朝公の叔父である、鎮西八郎源為朝公の三十一代目の外孫、頼朝公の弟であり、義経公の同母兄に当たる、阿野全成公の二十七代目の外孫にあたり、そのようなことからか、源氏一門に由来する、数多くの絵画、彫刻が残されており、源平のいにしえを偲ぶことができます。どうか、ごゆるりと、歴史の一面に触れられてください。



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